いつも自分の気持ちと向き合い、正直に積極的な行動を続けてきた池倫子(いけともこ)さん。
今は自分の活動を『結婚作家』と表現し、幅広くご活躍されています。
ここまでの経緯や、ストレスから蕁麻疹の発疹、円形脱毛症があったことなどもお話してくださいました。
フリーターからスタート
高校を卒業後、とにかく親元を離れたかった池さんは、住む家も仕事も決めず東京へ出ました。掛け持ちしたアルバイトの中には、時給1800円という評価もありました。
-高校を卒業後は?
16歳の時に父は亡くなっていたので、母と一人っ子の私の2人家族でしたが、親元を離れたいという気持ちが強く、「私は何かできる」という野心もあって、何も決めずに上京しました。
-東京での生活は?
アパレル関係、飲食店、舞台照明、花屋などでアルバイトとして働きました。複数を掛け持ちした時期もありました。フリーターですよね。でも、どのアルバイトも正社員として採用する業種ではないですからね。アルバイトでも、家賃を払って、生活して、それでも余りある収入がありましたし、お金以上に大切な経験や出会いもありました。
-具体的に聞かせていただけますか。
昼間のイタリアンレストランでのアルバイトでは、時給750円で採用されたんですが、そこのオーナーに評価されて、1800円の時給をもらいました。そこは能力給のお店だったのですが、特にどこが評価されたのか正確にはわかりませんが、笑顔とコミュニケーション力を評価してくださっていたようです。特別なお客様の担当もさせていただきました。
「一生この仕事」と思えるものは何か?
アルバイト先では評価され、知人の紹介などで仕事に困ることもなく過ごす中、池さんは、自分の能力やスキルで報酬を得たいと思うようになりました。それにはお母様の影響もあるようです。
-ずっとアルバイトをされていたのですか?
いいえ、21歳になり、漠然と「掛け持ちのアルバイトでお金を得るのではなく、自分の能力やスキルでお金を得たい」と思うようになりました。それは、今は健康だからいいけれど、何十年も今の状態を続けられるわけではなく、病気になったら?40歳、50歳になったら?蓄えもなくどうするのか、と考えたんです。父が亡くなってからも、私が不自由のない生活が出来たのは、ずっと母が若い時から看護師として働いていたからです。そんな母の姿を見ていたからだと思いますが、私も「一生この仕事」と言えるものを持ちたいと考えました。
-どうなさったのですか?
今までしてきたアルバイトは、飲食、サービス、服飾、舞台、花です。これらの経験を全部生かせるものはないかと考えた時、花屋のアルバイトで、ブライダルの世界を垣間見たことを思い出しました。
偶然ですが、これまでのアルバイトは全てブライダルの仕事に必要なものだと気が付き、この経験を生かしてブライダルの仕事をしようと決めました。
それから、資格取得情報誌で学校を探し、人前式の第一人者の安部トシ子先生の「オフィース・マリアージュ」のプライベートスクールで勉強しました。
当時は「ウエディング・プランナー」という名前は全く知られていませんでしたが、その後ジェニファー・ロペスの「ウエディング・プランナー」という映画の公開で、一躍知られるようになりました。
-プライベートスクールを卒業してすぐウエディング・プランナーとしてお仕事できたのですか?
当時、設立2年目だった「アニヴェルセル表参道」に就職しました。ここに就職が決まったのは、以前アルバイトしていたイタリアンレストランのシェフがアニヴェルセル表参道に転職していて、その方が私を押してくださったことと安部先生の推薦があったからです。その頃の「アニヴェルセル表参道」は、フランス風のカフェのお店の前で結婚式を挙げるという、今までにない挙式として話題になり、有名人の方の挙式もありました。
2年目で既に、ウエディングに必要なものが明確になっていて、それぞれに担当者が決められ、体制が整っていました。そこで働きながら、私はどうしても一から立ち上げたいという思いを強く持っていた26歳頃、ブライダルを強化したいという企業から引き抜きがあり転職しました。
-転職して、いかがでしたか?
転職先は30店舗以上のカフェやレストランを運営している会社で、普段は3階建のカフェだけど貸切ウエディングが可能という、新しいスタイルのカフェを考えていて、私はウエディング・プランナーとして採用されました。ブライダルについて何も知識がないスタッフとの仕事でしたから、全て私が仕切るしかなく、本当に一からの立ち上げでした。最終的にはグループでその中の何店舗かでもウエディングを取り扱うようになりました。
ただ、一から立ち上げたいという希望は叶いましたが、21歳からずっと働きっぱなしで、少し休みたいと思うようになりました。
人生の転換期となる婚約・結婚・出産
少し休むということは、イコール退職だったようです。上京して約10年。実家のある新潟に戻ることを考えました。
-仕事を辞めるということですか?
18歳で上京してから28歳まで、アルバイトの掛け持ちや、ブライダルというサービス業という仕事柄、土日は休めませんでした。だから、土日に休みたいなと思いました。東京の忙しさに少し疲れていたと思います。それに、母が一人で新潟にいますから、いずれは新潟に戻るつもりでした。周囲を見ていて、東京の女の人はバリバリ働いて結婚しない人が多いように感じていました。
そんなときに、幼馴染に「新潟に戻ってくれば」と言われました。プロポーズですよね。それを聞いて、母の近くで暮らし孫を見せたいと思い、帰りたいと思いました。
-即、結婚ですか?
いいえ、即、新潟に戻り、婚約を経て一緒に暮らしました。29歳で結婚式を挙げて、30歳で子どもを生みました。婚約してからは仕事をせず、今までやりたかったけどできなかったことをしました。幸せな時間でした。
-ご自身の結婚式は、やはりご自身がプランニングしたのですか?
そうなんです。全部自分でプロデュースしました。護國神社で挙式をして、知り合いの料亭で披露宴をしました。この料亭では私の披露宴がきっかけとなり、新事業として披露宴も受けるようになりました。
-出産後、再びお仕事をしようと思ったのはいつ頃ですか?
子どもが10ヵ月になった頃でした。社会とつながっていない!と思うようになりました。旦那を待つ、子どもが小学生になったら学校から帰って来るのを待つ…待つ人生なの?と思うようになりました。
自分に合った働き方で報酬を得ること
再び仕事をしようと思って行動をおこし、フリーランスのウエディング・プランナーとして起業しました。起業後2年がたった頃、事業スタイルを拡大すると一気に忙しくなり、ストレスから蕁麻疹の発疹や円形脱毛症になりました。
-仕事はどのように探したのですか?
履歴書を書いて面接するのが面倒だったので、これまでの経験を生かして、フリーランスのウエディング・プランナーとして起業しました!
でも、名乗るのは簡単ですが、すぐ仕事があるわけではありません。人の紹介や口コミで仕事の依頼が来るようになりたいと思い、しばらくは人脈作りに励みました。でも、仕事の発注はありませんでした。1年半、仕事はゼロでした。
-その間、お子さんはどうしたのですか?ご主人は何とおっしゃっていましたか?
祖母の介護のことなどがあり、母は看護師の仕事を辞めて実家に居ましたので、子どもは母に見てもらいました。主人は理解してくれて好きなようにさせてくれました。
仕事がゼロですから、家庭と仕事の両立はどうするかという心配は必要なく、夕ご飯も作れましたし問題ありませんでした。
-ご家族のサポートは重要ですね
そうですね。母がいることで保育園に預けないで済む、主人のサポートがある、この2つがあったから起業できたのだと思います。もしなかったら、パートなどで働いていたと思います。
-世間には、お母さんやご主人のサポートがない人が多いと思いますが、そういう方へは起業はすすめませんか?
起業したらすぐに仕事が来たり、必ず成功するわけではありません。起業は経済的保証がないことを、子どもがいるとかいないとか関係なく、理解しておく必要がありますよね。
-いつ頃から仕事の依頼が来たのですか?
フリーランスとして起業して1年半位経ってから、以前知り合った方からの紹介などで、ウエディング・プランナーとしての仕事や学校で教えることができました。
そして、2年契約のレストランウエディングのプランナーとしての仕事依頼がきました。私としてはこれまで、仕事がない期間を経験していましたから、契約を結びました。そのためにアシスタントスタッフを雇い、万全だと思いました。
でも、アシスタントスタッフはじめ、ウエディングレストランとしての経験がないレストランスタッフとの仕事は、とても大変でした。仕事の多い少ないやボリュームに関わらず報酬は一定だけど、全ての責任は私一人にかかってくる!そんな重圧が続くと、ウエディングが多い土日になると顔以外全身に蕁麻疹が出たり、10円玉位の円形脱毛が出来たりしました。蕁麻疹のときは病院で注射を打ってもらって、なんとか仕事をしていました。月曜になると蕁麻疹はすっかり治ってるんですけどね。
そのうちに、私は自分のスタイルで仕事をしようとして起業したはずなのに、今はこのレストランに就職した状態ではないかと考えるようになりました。それで、契約延長はせず、その仕事は終了しました。そして、最初にやりたいと思ったことに戻ろうと決めました。
実はこの頃、別居したんです。
-池さんのお仕事が忙しくなったこと関係があるのですか?
主人は家業を引き継ぎ、会社を経営していました。とても忙しくて体調を崩してしまったんです。それで、生活の負担を減らすこと考え、子どもと私は近くにある私の実家で生活することにしました。そういう別居生活が1年以上も続いたことと、主人の体調が良くなったこともあり、話し合って離婚しました。家が近いので、今も子どもは毎週父親の所に泊まりに行っていますし、私たちも結婚前の幼馴染のときのように付き合っています。
結婚の瞬間の演出者から、キャリアプランニングサポーターに
学生に教える、ブライダル系企業のコンサルティングなど、起業した頃にやりたいと思っていたことに専念することにした池さん。次第に、結婚式というピンポイントのみではなく、人生は結婚前後が重要だと発信することを考え始めます。
-初心に戻ったわけですね。
そうですね、36歳になっていました。
帰宅すると子どもは既に寝ていたり、土日も働いていたので子どもの行事に参加できませんでした。子どもとコミュニケーションを取る時間を作りたいとも思いました。
それで、私が実際に結婚式をプランニングするのは、誰かの紹介があった方のみにして、ブライダル専門学校の非常勤講師と企業コンサルティングに専念しました。そのうちに、結婚を取り巻く環境や人生の中での「結婚」の意味を考えるようになりました。
-結婚の意味とは?
大学の先生とお話ししたり、自分自身でも勉強していくと、日本は婚姻を結ばないと子どもを生まない制度の国だということを、改めて強く感じました。それはつまり、現代は結婚しない或いはできないから出産が少なく、すなわち少子化につながっていくというスパイラルなんですよ。
本来結婚は、相手を思いやる気持ちの結果なのですが、複雑になっていますよね。
-『結婚作家』というネーミング付の意味は?
日本には「結婚」や「出産」「子育て」に関して色々な仕組みがありますが、皆さんが知っているのはそのほんの一部の情報です。日本にはどんな制度があるのか、結婚前に知って欲しいと思いました。
結婚する・しない、子どもを生む・生まない、仕事を続ける・辞める、女性にはたくさんの選択肢がありますが、少子化がどういうことか、結婚とは何かを具体的にわかりやすい例で紹介して、若い人たちに結婚が楽しいものだと思って欲しいんです。
このようなことを伝えていくために、現在は『結婚作家』という名前を付け活動しています。
-これからの夢はなんですか?
ひとつは、成婚率上昇実現に向けて、若年層への教育に力を入れたいと思っています。決して少子化解消のために、子どもを生むことを推進しているだけではありません。
結婚制度、女性の仕事、出産のことなどの情報を、高校生でも理解しやすいように具体的に話して、早いうちに“結婚”という選択をする人を増やしたいと思っています。今この取り組みをしても、今の高校生がある程度大人になるまで結果はでません。つまり結果は10年先にしかわからないことですが、今しないと永遠に変わりませんからね。
もうひとつは、企業に、女性が出産しても働き続けられる働き方導入を提案してきたいと思っています。今の若い世代は収入が少なくて結婚できない場合が多いんです。男性だけの収入では生計が成り立たないから結婚できない、女性も働き続けないといけないから子どもを生めない、と考えている若者がたくさんいます。もし、女性が働き続けられたら、生活の不安は解消されますよね。だからと言って、女性にばかりが負担にならないように、男性の協力が重要なことには変わりません。この活動は、他の組織や個人の方と「プロジェクト」を組んで進めていくつもりです。
池さんの声
子育ては、常識的でなくていいと思っています。子どもが3歳まではこうしなきゃということに惑わされず、自分なりの方法や、ライフスタイルでいいんです。頑張りすぎずに、適度にいい加減に。「私は母親だから」と無理をせず、子どもと一緒に考えてもいいのではないでしょうか。
女(JOB)ブ活!からのコメント
お話を伺いながら、池さんの行動力とパワーと共に、相手を気遣う繊細さを感じました。
また、高校生に「少子化」とはどういうことか、「少子化」がどうしていけないかの説明の仕方を伺って、なんてわかりやすいのだろうとびっくりしました。
先日、私が参加した大学院のゼミで「そもそも、人口減少はいけないことなのか?人口を増やす必要はあるのか?」という人がいました。私は声を大にして反論しました。残念ながら、なぜ少子化が困ったことなかを大人が理解していなのかもしれません。
様々な社会問題がありますが、決して答えはひとつではなく、見方や立場によって異なる答えが出ます。だから正解はありません。でも、色々な方向から取り組むことで、結果として問題が小さくなったり、解決に近づくのだと思います。
『本来結婚は、相手を思いやる気持ちの結果なのですが、複雑になっていますよね』という池さんの言葉が、心に響きました。(2014/01/30)